サラ・シャンティ通信11月号

カタカムナの哲物理学的な力

「言霊の幸はふ国」の古代日本では、心と物は共にモノでした。モノ(物)も自然と人間(者)も一体で、物と心を分けなかったし、全ての存在に見えない魂や霊性を感じ、厳しくも慈しみ深い自然を崇拝し、すべての生き物と共存し、愛と調和の平和な生活を営んでいた。

この日本語という不思議な言霊的特徴があらわれる言葉。物思い、物音、物心、物事、物悲しい、物差し、物静か、物恐ろしい、物知り、物惜しみ、物の怪、物々しい、物分かり、物笑い、物忘れ、と見えないものをモノ扱いしています。これはカタカムナの相似象と潜象世界を中心にした考え方と生き方から来ています。

カタカムナの哲物理学による目に見えないモノを大切にしてきた文化、神人一体の考え方から神道的多神教が生まれた事が日本文化独自の特徴となり、日本語の持つ懐の深い巨視的な多様性が生まれ、神道的な意識を育てています。それが西洋人にとって、「得体のしれない国、顔の見えない国、曖昧な国」と言わしめました。

それは「ありがとう、すみません、ごめんなさい、おかげさまです、いただきます」など、誰が誰にお礼を言っているのか、誤っているのか分からない表現ですが、ご馳走様は神様やお天道様、大自然に対してのお礼の言葉を、相手と共有するのが日本語で、カタカムナ的なのです。

それが問題なく江戸時代まで継承されてきた訳ですが、明治維新以降に入ってきた西洋人の物質中心の無機的な意識に支配され、英語や仏語、独語などを習得することで個人主義的意識が強くなりました。これらの言語はすべて主語が述語を意識して動詞の語尾を変化させてしゃべるからです。

スペイン語の動詞の食べる=Comerの語尾変化は

Yo como,Tu comes, Usted come, Nosotros comemos,

Vosotros comeis, Ustedes comenとなります。

こうして欧米語の特徴はいちいち主語・述語を意識して動詞の語尾を変化させてしゃべる訳ですから、自己主張が強くなり声が大きくなり、個人主義を育てるのです。ですから主語・述語を省く日本人にとって主語・述語を強調する欧米語は翻訳するのが難しくなるのです。この大きな特徴を学校では教えないので、自己主張の下手な日本人にとって英語が苦手になるのです。

しかしクリスマスを祝い、年末に除夜の鐘を聞き、元日に神社に初詣に行くなどと様々な宗教の行事を生活に生かし楽しむ国は、他国から見れば信じられない美点です。仏教が伝来した時、世界の常識では確実に宗教対立が起こりますが、聖徳太子のお力により神仏習合がなされました。こうして神道には、仏教、儒教、道教も、それぞれの独立性を保ちながら、それぞれの良い部分を吸収する優れた特徴が生かされました。

争わず、否定せず、共通点や妥協点を見つけ「争いを好まない縄文精神」が育まれた、そこにはカタカムナの哲物理学的な巨視的動態的宇宙意識により「生き方を大切にする合理主義」があるのだと思います。豊かな気候風土と自然と食に恵まれ、世界に類を見ない高度な文明を築き、集団で殺しあうこともなかった平和な民族心を15000年以上も共有してきたのです。

その縄文15000年の間、世界史的にもありえない歴史文化の特徴として、阿弥陀如来の日本での化身を八幡神、大日如来の化身を天照大神と考えるなど神仏習合させた懐の深さがカタカムナ的なのです。

そのカタカムナ80首に登場する神々の名前は古事記の神々と同じで、その第7首に登場する神名の哲物理的翻訳は「アメノミナカヌシ=アマ始元量が変化し実態が核となり潜象化」

「タカミムスヒ=現象の実体が六方に進行し根源となる」

「カミムスヒ=潜象の実体が六方に進行し根源となる」

となります。

この訳から山川草木悉皆成仏の神仏を習合させる知恵が生まれてきたことを想像するのは難しいですが、15000年という長い長い間に50音の日本語が言葉を生み出していった訳ですから、古代日本の「言霊の幸はふ国」をイメージしたいと思います。

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